ご飯・空手・渓の日記


by 4433yoshimi
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7月6日に亡くなった釣友・辻村努さんの散骨をするため、8月11日の午後、車で東京を出発した。車を出してくれたのは、三面川の小屋で我々と会って以来、辻村さんの舎弟となった四ノ原卓郎さんだ。高円寺駅で竹村しげるさんをピックアップし、関越自動車道を走って石打で降り、新潟の十日町で辻村さんともよく遊んでいただいた滝沢貞夫さんと夕食をご一緒した。そこに仙台から駆けつけてくれた森辰雄さんと彼の後輩である虻川さんと桑原さんの3名が合流。腹ごしらえをして滝沢さんに見送られ、一同、魚野川の車止めである秋山郷・切明に向かった。その日の天気はまずまずだったが、翌日以降は雨がちの天気とのことで、増水が心配だったが、まあ、手練れのメンバーなのでどうとでもなるだろうと不安は感じない。
やがて東京からの後続組、佐々木さんと木村さんも到着。仮眠後、総勢、8名での出発となった。

雨は降らないまでも、空は雲におおわれ、歩くにはいいけれど、先行きが少し心配な気配だ。魚野川本流に降り立つまでの歩きは3時間ちょっとだろうか。体調を崩して入院し、退院してからはまだ1週間という病み上がりの森さんがかなり遅れている。天気も心配なので、無理せず、本流に降り立った地点をテンバにすることにした。今回は釣りが目的ではない。あくまでも辻村さんを弔うためだから、誰もが余裕のあるスケジュールにしたい。釣りがしたくてたまらない様子の竹村さんと木村さん、佐々木さんに林道途中から本流に降りてもらうことにした。なんとかおかず分くらいは釣ってきてくれるだろうと思ったのだが……。
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テンバに到着すると、テンバのセッティングをする者、釣りに行く者、それぞれの役割に応じて散る。私は今回はテンバキーパーに徹することにしていたので、フライシートをかけたり、焚き火の準備をしたり、辻村さんの遺骨にローソクと線香を添えたりと、ゆるゆると作業する。かって知ったる渓の生活の始まりだ。一段落つくと、森さんはトンビマイタケ探しに、私はフキやミズを採りに散策に出かけた、ひとりでブナの林の中を歩くのはとても気持ちがいい。いろいろなことを自問自答したり、山の神に祈ったり、風を、空気を楽しんだり、自然に時が流れていく。

f0207325_13382474.jpgその夜は林道の途中でいただいてきたチタケで混ぜご飯を作ったり、森さんの好物のイワナカツサンドやイワナの柳川風、持ち込んだベーコンを焚き火で焼いたりして酒を飲み、ご飯を食べた。ちなみに、米を炊くビリー缶は今回、私から四ノ原さんに引き継ぐことにしたので、米の炊き方をきっちり指導。火を弱めたり止めたりするタイミングを目や鼻で計るやり方を伝えた。15年、炊き続けてきたのだからそれなりのカンはあるけれど、案外、単純だったりもするので、きっと上手に炊けるようになるだろう。

明け方、寝袋の中に半分体を入れたまま起きて外を見ていたら、1日遅れで合流する川越渓美隊の高橋信博さん、馬庭隆さん、そして最近、渓でピックアップしたという新人さんの3名が朝の逆光の光の中、川の中をじゃぶじゃぶこちらに向かってくるのが見えた。高橋さんとは昔はよくご一緒したものだが、久しぶりの同行だ。今回、散骨のほかに、彼のイワナ寿司を食べるのもひとつの楽しみだった。昔、寿司屋でバイトしていたという彼の作る鮨は、本当に本職にも負けないおいしさなのである。ほかのメンバーも起き出して、それぞれ再会を喜び合った。

f0207325_13391385.jpg辻村さんの弔いは、川に散骨をするとダムに流れていってしまうだろうとのことで、目印になる木の根本に埋めることにした。魚野川を遡行する人は誰もが通る、前には穏やかな流れ、背後には樹林帯と、絶好のロケーションだ。森さんが石を組み、四ノ原さんが形のいい石を河原から探し出してきて建て、順番に線香を上げたのだった。辻村くん、よかったね。大好きだったこの川に、ずっとずっといられるんだよ。心の中に辻村さんの笑顔が広がり、あたたかい気持ちになったのだった。

木村さんと佐々木さんはその日の昼に下山し、残りのメンバーで2日目の弔い宴会となった。釣果は少なかったとはいえ、高橋さんのイワキューの巻物もいただけたし、スパゲティのトマトソール和えや高野豆腐の煮物、イワナ汁など、豊かな宴に辻村さんもご機嫌だったに違いない。

下山日は、まるで辻村さんが名残を惜しむような涙雨だった。しとしと降り続き、「ねえ、もうひと晩、泊まっていけばぁ?」と言う彼の声が聞こえるようだった。
朝ご飯を食べて出発。後ろ髪を引かれながら帰路についた私たちだった。

辻村くんとは、知り合ってから一緒にいた時間のほとんどは渓の中だった。渓の中の付き合いは、渓の仲間にしかわからない。一緒に吸った空気、体を浸した水の冷たさ、雨の日のタープの下でのやるせなさ、爆釣の渓での笑うしかない楽しさ、どの瞬間もみんな輝いていた。ありがとう。渓に抱かれた私たちは本当に幸せでした。
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# by 4433yoshimi | 2015-08-18 13:40 | Comments(5)
20年暮らしたピーター君は半年前に失踪したし、10年、いっしょにあちこちの渓に行った辻村君も今月、死んじゃった。私の前から大切な人がひとり、ひとりといなくなってるけれど、新たに遊んでくれる人もひとり、またひとりと増えている。10月半ばには明石に引っ越しをする。きっと新たな出会いがあるだろう。なるべくしてこうなった。そんな気がしている今日この頃。
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ひとりで映画に行くなんて、以前なら考えられないことだった。いつだってどこへだって、私はピーター君と一緒だったから。先の予定を決めるのも、彼の予定とすりあわせて決める、そんな二番手の人生だったと思う。
どうしてそうなっていったのだろうか。はじめは、彼より私が優先だった。渓へ行くようになり、空手を始めるようになり、いつのまにか彼は私の師匠になっていた。だから、私よりも彼のほうがえらい人だと思うようになっていったんだ。彼がどう思うか、彼が何をしたいのか、彼が何を食べたいのか、そんなことを先回りして考えることが習慣になっていた。
けれど、最初から生活費は私が働いて工面していた。車を買ったのも、沼田の家を買ったのも、どこかへ出かけるのも、すべて私が稼いだお金だった。でも、それが当たり前だと思っていた。だって、彼は私の師匠だから。だけど、それがとてもつらくなってきていた。だから、何度もあなたも仕事を見つけてほしいと頼んだけれど、彼はいつも家にいる人だった。そして、とうとう私は「もう、これ以上は頑張れない」と泣いたんだ。そうすると彼は「もう頑張らなくていいよ」と泣きながら言った。そんなこんながあって、彼はいなくなった。今でも本当のことはわからないけれど、私は今、自分の足で自分の人生を歩んでいる気がしている。ありがとう。こんちくしょーだけれど、ありがとうと私は思っている。

それぞれの人生なんてたいしたことがないし、小さなことにこだわったりしてつまらないことで日々が過ぎていっている。でも、時々はきらめくような瞬間があるなあと思うのである。バカなことばかりして生きてたけれど、きらめくような瞬間がいくつも、いくつもあったんだ。

昨日、満員電車に乗っていたら、若者が叫んでいた。「はいはい、わかってますよ、あんたたちに心がないことなんて」と延々と大声で言い続けるその彼は、まるで、助けてと叫んでいるようだった。だけど誰も何もできず、体を密着させながら電車に揺られているばかり。体はこんなにもくっついているのに、心は遙か彼方。みんな、自分で何とかするしかないんだよ、と抱きしめてあげたいけれど、流れる汗をぬぐうこともできないくらいの満員電車の中では、それもかなわないのだった。

今年のお盆は辻村さんが大好きだった沢に散骨に行く。渓はいいよなあ、とピーター君も辻村君もいつもつぶやいていた。私もそう思う。けれど、渓は渓。もうすぐ、明石に行ったら、今とは少し違う景色が見えてくるような気がする。これからは私が一番手の人生を歩んでいきたいと思う。
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# by 4433yoshimi | 2015-07-31 13:52 | Comments(6)

東京寂寞

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着々と明石への移住計画進行中。今日は引っ越し屋さんに見積もりに来てもらって即決した。ほかの業者に見積もりを頼んでも、差額は1万円以内だろうと判断したから。
それにしても最近は消費者のツボを突いた作戦で来るものだなあと感心した。営業に来た30代のセールスマンは、新米の女性を引き連れ、バリバリに威勢のいい様子でやってきた。そして、最初の段階から最終見積もりに至るまでの、たたみかけがすごい。まるで芸を見ているようだった。そういう意味では感じがいいし、デキる営業マンだったのだろう。この後、ほかの業者と会って検討して、という時間のロスを考えたら、妥当な線だと思って決めたのだった。

近頃、不動産屋での取引や、銀行でのやり取りが多くなったので、セールスとか、セールストークについて思うことがある。その人となりと経験と、勉強、そして運というものが複雑に絡み合って案件が成立したりしなかったりするものだが、結局は、人柄と運の要素が大きいと思う。信頼できるかどうかは、もちろん所属している会社や階級の要素も大きいが、こちらを見る視線がかなり重要だ。ほとんどがガラス玉の眼のようなのであるが、その中でもいやしさが透けて見えなければ、一生懸命さがかいま見えればまずまずだと思う。
まあ、私みたいな金も地位もない女なんて商売としてのうま味はなんにもないとは思われるのだが、それでも誠実であるということは人と人の基本だろう。
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また、近頃、切実に思うのは、商売人とのお金の話は冷静かつ綿密になれるが、ことプライベートになると、かなり詰めが甘くなってしまうなあということだ。将来に関しての夢とか希望とか安心だとかが、お金の何割かを担保にしてしまう。ついあいまいなままで日々が過ぎてしまい、気づいたらなんてバカだったんだろうと暗澹とするのである。それは男女関係において、女性の場合は私だけではなく、ほぼそうなのではないかなあという気がする。独り身になった女性と話をすると、そうしたもろもろに深く深く同意するのであった。まあ、そのときには気づくのは不可能だろうという気がするのであるが。その点、50代から80近くの現在までひとりで生きてきた明石のおばちゃんは一刀両断に分析して気持ちがいい。
「そんなうまい話があるわけがない!」
と鼻にも引っかけない様子は、本当に胸がすくような割り切り方なのであった。
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東京での生活は、とても楽しかった。
だからきっと明石でも楽しく過ごせると思う。
まあ、ケセラセラでいこうじゃないの。
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# by 4433yoshimi | 2015-07-21 18:45 | Comments(0)
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北海道の実家に電話をすると、92歳の父が腸閉塞になりかけで入院したとのこと。数年に1度はお腹が痛くなって入院しているが、母の話では今回は軽いらしく数日間の入院ですみそうだという。
その夜、携帯電話が鳴って受話器を取ると、父の声だった。「もうなんともないから帰りたい」とのこと。どうやら病院から電話してきているようだ。後ろで女性が父に何か諭している様子だ。きっと看護士さんだろう。父があまりにも不穏なので仕方なく電話させている模様。なんとかなだめて電話を切った。すると数分後に看護士さんらしき人から電話があり、少し安定はしたけれど、足が丈夫だからいつ逃げ出さないとも限らないので困っているとのこと。なんとか良くなるまで面倒を見てくださいとお願いしたが、ほとほと困惑している様子だった。
翌朝、心配で父に持たせている携帯に電話をすると、いつもの妄想が始まっていた。殺されそうだとか薬をもられているとか頭がおかしくなりそうだとか、もっとひどいことのetc. 92歳になっても心を安らかにする術を知らないなんて本当にかわいそうだと思う。心のどこかが病んでいる。老いがそれを加速しているのかもしれない。
「ごめんお父さん、私、これから空手の稽古だから、終わったらまた電話するね」と逃げるように電話を切って空手の稽古に出かけた。
稽古後、再び電話をすると、父の声が思いがけず明るい。あらら、どうしたことか。聞くと、点滴だけだったのが、お昼に軽い食事が出たとのこと。ナスの煮たのをどうたらこうたら延々と説明するのを聞いていた。食べられたことがよほどうれしかったらしい。明日、退院できるとのことで、気分が一気に暗から明に激変した様子。朝、自分がどんなことを話したのかも覚えてはいないのだろう。一緒に暮らしている母の気苦労はいかほどか…。
秋に明石に越したら、いつでも父を引き取れる。いいタイミングで引っ越しができてよかった。

ようやくひとりで暮らすことに慣れてきたような気がする。誰に気遣うことなく自由に日々を過ごせることに、喜びすら感じるほどに。孤独と自由、ぬくもりと気遣い、どっちもどっち。どんな状況でも人間は自分を肯定しながら生きていけるものなんだなあと思うこの頃。
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# by 4433yoshimi | 2015-07-02 19:22 | Comments(0)

イワナになろう

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何年かぶりに訪れた渓仲間の家のチャイムを鳴らすと、かすかに声が聞こえたような気がした。玄関ドアには鍵がかかっていなかった。「おじゃまします」と声をかけ、中に入って居間に向かうと、彼は床に敷いたマットレスの上に横たわっていた。パジャマ姿だった。先月、うちに来て食事をしたり、引っ越しの梱包をしてくれたりした彼が、別人のようにやせ、頬はげっそりとこけて力なく目を見開いている。驚愕の光景だった。どうしてこんなになるまで……。

その日、遠方の渓仲間から電話があり、T君の具合が悪いらしいから様子を見にいってくれないかと連絡があった。昨年、病気らしいとの話を聞き、本人に尋ねてみると「軽いから大丈夫です」との返答だった。私自身、昨年末からの心労で、気にはなってはいたけれど、たいしたことはないと思いたかったのかもしれない。その前週、食事に誘うと、いつもは必ず来ていたのに予定があるから来られないとの返事で、へんだなあとは感じていたのだが。

T君と知り合ったのは、2003年のことである。その年、私が企画編集していた源流釣りの本を見て編集室に訪ねてきた彼を、上信越国境魚野川にお連れしたのが初めての釣行である。それ以来、彼は、もともと釣りはとても上手だったが、渓の生活術や遡行術もみるみる上達し、数年後には私や仲間たちのサポートをしてくれるまでの手練れになっていた。毎年、数々の渓に同行し、助け助けられ、同じ釜の飯を食い、同じ景色を見て感動し、感謝し、シーズンオフでも我が家で渓の話に興じる日々を過ごしてきた。数年前から頼もしい後輩のS君も得て、T君は源流師として脂ののりきった時期を迎えていたと思う。49歳、独身、技術者としても優秀な男だという。その彼が……。

何を話したのか、今となってはあまり覚えていない。30分ほどして、前の週から泊まり込みで面倒を見てくれているという女性が買い物からもどり、おおまかな経過をうかがった。もう2週間も食事ができていないという。彼の後見人である叔父さんの判断で、自宅療養を続けているらしいが、私の目から見て、命の危険を感じるレベルの衰弱ぶりだった。すぐに入院したほうがいいというと、彼女は診察券のある大学病院に連絡し、救急で受け入れてくれるとの了解を得た。駆けつけたS君の車で病院に運ぶと、即入院してくださいとのことだった。

その夜、彼女の頼みで私とS君はT君の家に泊まった。冷蔵庫に残っていた食料を少し食べ、酒をたくさん飲んだ。下戸のT君が仲間のために買いおいてあったどぶろくを、しこたま飲んだ。にもかかわらず、あまり酔わなかったような気がするのは、あまりのことに気が動転していたせいかもしれない。翌日、訪れた叔父さんの車で病院に向かった。点滴のせいか、少し顔色がよくなって、目に生気を取り戻していた。どんなに重い病でも、生還した人はいる。帰り際、「また一緒に釣りに行こうね」というと、Tくんはかすかに微笑んだ。

数日後、病院を訪れた。彼女の話では、生きる気力をなくしているという。私はたったひとつだけ、伝えたいことがあった。
「イワナになったと思って。イワナはどんな状況になっても必死に生きようとしてるよね。T君、イワナになるんだよ」
すると彼は笑った。イワナ釣り師にとって、イワナは獲物でもあるが、心で寄り添う生きものでもある。もしも私がイワナだったら、きっとあの淵でエサを待つだろう。もしも私がイワナだったら、今日は黒い毛バリより緑の毛バリのほうがおいしそうに見える。などということをずーっと、ずーっと考えている。イワナは、激流で岩や砂にこすられてボロボロになっても、必死に生き抜こうとしている。それだけを私は思い出してほしかった。
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生きるってたいへんなことだ。だからこそ尊いのだと思う。
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# by 4433yoshimi | 2015-06-17 15:10 | Comments(4)